2012年6月29日金曜日

《黙阿弥の明治維新》

北海道も、やっと夏の陽射しに。今週は、スクリーンでは取り立てて記憶すべき映画に巡り会えなかったものの、渡辺保氏の『黙阿弥の明治維新』(2011)を読了。これも1997年発刊書籍の岩波現代文庫化。『江戸演劇史』(2009)をはじめ、ここ数年は歌舞伎に関する見識の鍛錬で渡辺氏の著作にお世話になっている。近代演劇の誕生を黙阿弥のワークに見い出す、眼光と批評力はさすが。何よりも、近世から近代へ、時代の変わり目を、断絶ではなく連続として、政治と世相、生活者感覚を踏まえた検証を提示しているところに目を見張る。
黙阿弥の引退作「島鵆月白波(しまちどりつきのしらなみ)」(1881、明治14年)で、舞台に視覚的なセッティングもなされたという招魂社(護国神社、靖国神社の租)が据えられた意図を読み解くなどといった、歴史の語り口である。
何分、歌舞伎と本邦の映画(特に黎明期)は関係が深いということもあるが、芝居を観る、戯曲を読むことへの渇望にも駆られる。批評精神を含むメディア機能を担っていた歌舞伎という芸能の特性から、「脚色」という言葉の深みを知った。

2012年6月21日木曜日

《李香蘭と原節子》

先日、四方田犬彦氏の著作・岩波現代文庫李香蘭と原節子』(2011年)を読了。2006年(明治39年)が満鉄(南満州鉄道株式会社)の設立100年で、研究出版物や報道等の情報量が増えたこと、同年にNHKで「中国映画を支えた日本人―”満映”映画人秘められた戦後―」が放映されたことなどを契機に、しばし、その周辺学習がテーマとなっていた。同書は2000年刊の『日本の女優』がベースとのことで、こちらは未読だっただけに、映画史家・四方田氏の冷徹な慧眼に基づく論説は、私が得ていた読書知識の整理・統合にとても役立った。
同書タイトルの2人の女優に加え、前述NHK番組で紹介された、満映(満洲映画協会)出身の映画編集者・岸富美子氏の3人が主役、そろって1920年(大正9年)生まれである数奇さゆえの結節点を基に比較批評が語られている。冷徹さの基軸は、2人の女優を、それぞれの「神話」として歴史的に分析していること。ナショナリズムと歴史認識って、リアルタイムで繰り返し政治・経済課題に浮上してくるが、こうしたテキストは、歴史に学び、糧とする意義を確認させてくれる。
四方田氏も提起しているが、上海・中華電影の川喜多長政、甘粕正彦の下、満映で映画製作の実務を担った岩崎昶の両氏について、映画人としての通史研究成果を、もっと知りたいと思い直したところだ。
あと、四方田氏ほど、関連の歴史的フィルムが観れていないのには、羨望の念。

2012年6月20日水曜日

「サニー 永遠の仲間たち」

今週のスクリーンは、「サニー 永遠の仲間たち」(カン・ヒョンチョル監督、2011)から。「タイム・アフター・タイム」(シンディー・ローパー発の)を始まりとエンディングに配置、「ラ・ブーム」(1980)のテーマ曲(?)やボニー・Mの「サニー」を据えて、1980年代のコリアン・グラフティをコンセプトとする女子高在籍者チームの人情譚。ジェネレーション映画ともいえるので、これら選曲によってこそ、鑑賞者の支持度に温度差が出るように思う。
さて、私には。日本でも、まだ、大衆的に(?)洋楽が聞かれいたころで、同様の楽曲群がヒットしていたこともあり、ほとんどフィットして充足感を持って観終えることができた。物語の性格上、カットバックを積み上げた語り口といった確かな技量をはじめ、エンターテイメント性の関する韓国映画製作の力を示している佳作であった。一方、欠点ではないが、韓国現代史にとって80年代は政治・経済の転換期で社会性の薄い分、監督は、劇中の「1986年に高校生時代」より、若い世代ではと、よぎったが、どうなんだろう?
ユーロビートのディスコサウンドとして記憶している「サニー」、オリジナルはナッシュビルに縁があるボビー・ヘブ(Bobby hebb)、これはイメージ薄くなっていて、聴き直してみたい。


「サニー 永遠の仲間たち」の評価メモ
【自己満足度】=★★★★☆
【お勧め度】=★★★★☆

2012年6月19日火曜日

♪ククルクク・パロマ

先日、ペドロ・アルモドバル監督の「私が、生きる肌」(、2011)鑑賞から、「トーク・トゥー・ハー」(2002)でのカエターノ・ヴェローゾCaetano Veloso)の「ククルクク・パロマ」歌唱を思い出していたところ、前後して、TV放映録画で観た「ガン・ファイター」(ロバート・アルドリッチ監督、1961)で、同曲の劇中パフォーマンスを認知できた。
日本で知られたメキシコ発の楽曲はそうたくさんない中、この曲は、たぶんそれなりに著名か。個人的には、子供時代のわが家に初めてステレオセットが導入されたころに、購入されたハリー・ベラフォンテHarry Belafonte)のアルバム所収の歌唱で親しんでいてた。この盤は、ベラフォンテの1974年来日を契機にしたベスト編集、自分ではなく、家族のだれかが買ったもの、今となっては記憶は遠いが、サウンドは残る。バージョン、映画等での楽曲つながりに関心、さらに思い出してみたいが、、、
さて、「ガン・ファイター」、玄人映画ファン好みの職人監督・アルドリッチならではのグッド・ワーク。アルドリッチの西部劇は、もっと観てみたい。

2012年6月16日土曜日

「ソウル・サーファー」

キャリー・アンダーウッドが出演していると知り、にわかカントリーファンとして、それだけの理由で「ソウル・サーファー」(ショーン・マクナマラ監督、2011)を鑑賞。「ファミリー・ツリー」に次ぐ今年2本目のハワイもので、サウンドトラックも結構、期待していたが、キャリーの歌唱がない(たぶん)のは残念、まあ、その辺りはそこそこであったか。それで、キャリーはサーフィンするの?って予断は、主役のサーファー少女と親しい宗教活動者(preacherっていうのかな?)役ということで、納得。
さて、映画は予告編通りの、サメに左腕を奪われた隻腕少女サーファーの実話に基づいた復活劇以外の何物でもない。コンピューターグラフィックスを除く映画技法やシナリオ構成に、特段のハイクオリティや工夫、意外性は感じられないものの、モチベーションを大いに刺激する感動作に仕上がっていて、お買い得感があった。推奨リスト入りである。
主役を演じたアナソフィア・ロブは演技にも増して、顔構えが意思を体現していること、クリスチャニティに裏打ちされた心性が、あまたのスポーツ系感動ヒューマンドラマに比して、落ち着きと深味を与えていたと思う。もっとも、この心性、キリスト教に特有という訳ではありませんが。

「ソウル・サーファー」の評価メモ
【自己満足度】=★★★★★
【お勧め度】=★★★★★

2012年6月14日木曜日

「少年と自転車」

ファレリー、コーエン、タヴィアーニ、ウォシャウスキーときて、私の好みからは最も遠い作風の兄弟共同監督ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ「少年と自転車」(2011)。欧州にあって、底辺層、特に社会的なハンディキャップを抱えた人々を描写する姿勢が嫌いな訳ではない。彼らへの眼差しには優しさがあるものの、ユーモアに欠ける語り口に齟齬があるのかな。
痛み分けとも受け取れ、不安を払拭しきれない「少年と自転車」の幕切れは、巧みな選択と思う。一方、親にネグレクトされた少年の心理と行動の痛さ強調が昇華することになる、里親で美容師役、セシル・ドゥ・フランスの心の移ろいを表現して欲しかったというのが感想。

「少年と自転車」の評価メモ
【自己満足度】=★★★☆☆
【お勧め度】=★★★☆☆

2012年6月12日火曜日

「幸せへのキセキ」

キャメロン・クロウ監督、かなり久々の新作で「幸せへのキセキ」(2011)。原題は「WE BOUGHT A ZOO」とストレート、この邦題はどうか思う。原作に基づいたストーリーはともかく、音楽ライター出身のクロウ作品は、サウンドトラック、挿入歌群が楽しくシブイ。妻を病で失ったマット・デイモン演じる突撃報道作家一家の長男の名前に「ディラン」と付しているのも遊び心。ちゃんと、ボブ・ディランの歌唱も採用されていたし。音楽担当はシガー・ロス(Sigur Ros)のヨンシー(Jonsi)となっていた。北欧・アイスランド系?
クロウ監督のもう一つの持ち味、少年心の描出も上々の出来、大人目線では、飼育員役、スカーレット・ヨハンソンをクロース・アップ連続でとは、観客サービスであったか。

「幸せへのキセキ」の評価メモ
【自己満足度】=★★★☆☆
【お勧め度】=★★★★★

2012年6月10日日曜日

〈クレイジー・ハート〉

「カントリー・ストロング」(シャナ・フェステ監督、2010)続きで、その姉妹編ともいえる「クレイジー・ハート」(スコット・クーパー監督、2009)のサンウンドトラック盤も再聴。ジェフ・ブリッジス、コリン・ファレルら出演者自身によるパフォーマンスと、コンテンポラリー+歴史的録音もほどよく採用され、いわば、コンピレーションアルバムとして心地よく聞ける。
ルーヴィン・ブラザーズ(The Louvin Brothers)、デルモア・ブラザーズ(The Delmore Brothers)の兄弟デュオも気が利いていると思いつつ、今回の再発見はキティ・ウェルズ(Kitty Wells)。カントリー・ホンクというよりも、バラード?しっとり系の「サーチング(フォー・サムワン・ライク・ユー)」の歌唱で印象的で、劇中の場面は思い出せず、映画の再視聴もしたくなる。
音楽担当はカントリー映画ではお馴染となったT=ボーン・バーネット と、スティーブン・ブルトン。

2012年6月6日水曜日

「私が、生きる肌」

「オール・アバウト・マイ・マザー」(1998)以来、ほとんどの新作が本邦でも公開され、その質の高さには納得させられるスペイン人監督、ペドロ・アルモドバルの2011年製作「私が、生きる肌」。安部公房原作の「他人の顔」(勅使河原宏監督、1966)やキム・ギドク監督の「絶対の愛」(2006)などを思い出させる着想であるが、提示されたのはアルモドバル・ワールドそのもの。映像美、何よりもエレナ・アナヤの姿態に憑依されしまい、結末を予想する思考が働かないほど、時の経過を忘れさせてくれる。
審美センスに長けたアルモドバルの創作は、自身の性的嗜好が独特の色合いを醸していると思う。旧作では「真摯な性愛」として語りうる範疇がほとんどであったが、今回は、ジェンダーではなくセックスのトランスが織り込まれたことで、性愛は幻想に帰着したかにも受け取れる。
あいかわらず、音楽も秀逸。この間のアルモドバル作品は、基本的にアルベルト・イグレシアスが音楽担当。「トーク・トゥー・ハー」(2002)では、カエターノ・ヴェローゾのフィーチャー、劇中歌唱があったけど、今回の結婚パーティーシーンの黒人女性歌手も、なかなか。
あと、たまたま同日に観た「裏切りのサーカス」(トーマス・アルフレッドソン監督、2011)の音楽もアルベルト・イグレシアスだった。そうか、めずらしくサントラ盤まで買った「ナイロビの蜂」(フェルナンド・メイレレス監督、2005)もそう。調べてみるもんです。
調べて分かったこと、もう一つ。「私が、生きる肌」にアントニオ・バンデラスの主演(なかなかの好演)は意外と思っていたが、アルモドバルと旧知の関係だったとは。初期のアルモドバルも観てみたい、、、である。

「私が、生きる肌」の評価メモ
【自己満足度】=★★★★★
【お勧め度】=★★★★☆

2012年6月2日土曜日

「ルート・アイリシュ」

イラクの現況と軍事分野の民営化という、わが国の国民意識からは相当、離れているかに思われる主題を扱ったケン・ローチ監督の「ルート・アイリッシュ」(2010)。一貫して労働者層の視点で描き続けたローチ作品で、イギリスは階級社会であることを再認識してきた。(資本主義)社会の歪みを提起する語り口は、必ずしも幸せや救済に帰結しないが、今回は、友の仇討劇として、「一般受け」はしないであろう陰鬱な印象を残すドラマを提示してくれた。
ほとんどスターダムの俳優が出演しないローチ映画の演出には、ヒューマニティ、とりわけ、優しさの描出に特色がある。「ルート・アイリッシュ」では、提示した問題の迷宮に入り込むにつれ、リベンジを画策する男の怒りとバイオレンスが増幅していく。これが現実、イラクの、欧州のジレンマということか。ウディ・アレンと、ほぼ同世代でのケン・ローチ、老境のあり方では好対照の表現であった。ローチ作品の脚本は、概ねポール・ラヴァーティが仕事しているってこともあるのかな。
「宇宙開発も民間で」が現在進行形。軍事分野に限らず、グローバリゼーションと新自由主義の下での「官卑民尊イデオロギー」っていうのも気にしたい昨今である。

「ルート・アイリッシュ」の評価メモ
【自己満足度】=★★★★☆
【お勧め度】=★★★☆☆

2012年6月1日金曜日

「ル・アーヴルの靴みがき」

「ル・アーヴルの靴みがき」(2011)、アキ・カウリスマキ監督作品では何年かぶりの長編。こちらも、カウリスマキ節は健在、小津安二郎に学んだと思われるショット、カットつなぎは、相当の冴えをみせている。この映画の広報・キャチフレーズは「心をみがけば、奇跡はおこる」で、鑑賞後感は、ちょっと旧作群と異なるところに一考を要する。
底辺生活を送る主人公・靴みがきや不法移民といったシビアな要素をプロットに据えながら、暮らしと小コミュニティの人間関係を描き、希望を提示した人情喜劇にまとめたところが時代へのメッセージ。ウディ・アレンの表現とは違っているが、両者の方向性は支持したい気分だ。両監督とも、ほとんどの作品が人間生理に見合った上映時間にまとめられているのも、テンポよし、心地よくエンディングを迎えられる理由と思う。
表現をシンクロする手法としての音楽もアレン同様に、独特の色合いを出している。もっとも、カウリスマキの世代は私と近く、ロックのスピリッツに共感部分があるものの、奇妙でクールな仕様にらしさがある。「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」(1989)などといった奇天烈なバンド描いた作品もあった。自らの嗜好なのが、フィンランド人の嗜好なのか、映画表現として意図しているのかは分からないが。

「ル・アーヴルの靴みがき」の評価メモ
【自己満足度】=★★★★☆
【お勧め度】=★★★★☆